『センセイの鞄』 川上弘美(文春文庫)
2011年4月4日 読書
面白かった。
かつての先生と飲み屋で偶然に出会う。
近所に住んでいることから時々その飲み屋で顔を合わせる。
特に示し合せることもなく、
隣り合わせになることもあれば、離れたままのこともあり、
お互い勝手に注文し、勝手に飲み、
一緒に帰ることもあれば知らん顔で勝手に帰ることもある。
勘定は自分の分を自分が払う。
センセイは、いかにも先生だ。
堅物、お説教、教えたがり。
センセイは生徒の時代の私のことをはっきり覚えていたが、
私(教え子、女性)の方は、センセイのことをきっちりと覚えていたわけでは無い。
飲み屋での隣り合わせを重ねるうちに、
少しずつ、少しずつ二人の関係、気持ちが近づいてくるが、
センセイは堅物のままセンセイであり続け、私の方も教え子のままであった。
このかつてのセンセイとかつての教え子の、一見淡々と、
しかし、少しずつ、少しずつ、ほんの少しずつ、壁は高いままだが、
高い壁越しに相手が見えて来るそのじれったいまでの、
イライラするほどの経過描写が秀逸である。
秀逸と言うあまりにも普通の言葉で言い表すことがはばかられるほどの、
女性の、教え子の心の揺らぎを楽しんだ。
なっしーはこんな堅物ではないが、いや堅物で無かったからこそモテなかったのだろう。
もう少しセンセイらしければモテたかもしれないが、教訓としては残念ながらもう遅い。
カタブツで素敵なセンセイとかわいい私の物語。
かつての先生と飲み屋で偶然に出会う。
近所に住んでいることから時々その飲み屋で顔を合わせる。
特に示し合せることもなく、
隣り合わせになることもあれば、離れたままのこともあり、
お互い勝手に注文し、勝手に飲み、
一緒に帰ることもあれば知らん顔で勝手に帰ることもある。
勘定は自分の分を自分が払う。
センセイは、いかにも先生だ。
堅物、お説教、教えたがり。
センセイは生徒の時代の私のことをはっきり覚えていたが、
私(教え子、女性)の方は、センセイのことをきっちりと覚えていたわけでは無い。
飲み屋での隣り合わせを重ねるうちに、
少しずつ、少しずつ二人の関係、気持ちが近づいてくるが、
センセイは堅物のままセンセイであり続け、私の方も教え子のままであった。
このかつてのセンセイとかつての教え子の、一見淡々と、
しかし、少しずつ、少しずつ、ほんの少しずつ、壁は高いままだが、
高い壁越しに相手が見えて来るそのじれったいまでの、
イライラするほどの経過描写が秀逸である。
秀逸と言うあまりにも普通の言葉で言い表すことがはばかられるほどの、
女性の、教え子の心の揺らぎを楽しんだ。
なっしーはこんな堅物ではないが、いや堅物で無かったからこそモテなかったのだろう。
もう少しセンセイらしければモテたかもしれないが、教訓としては残念ながらもう遅い。
カタブツで素敵なセンセイとかわいい私の物語。
『ウオッカ=コーラ(上)』(チャールズ ・レビンソン, 清水 邦男訳)
2011年3月27日 読書
帰国準備を始めた。
とりあえず、本の荷造りから。
段ボール5個くらいにはなりそうだ。
今リンゴ箱が2つある。それぞれ20㎏は優に超えている。
これを郵便局まで運ぶことを思うと気が滅入り、腰が萎える。
もちろん4階(日本式には5階)から地上階まで下すのも腰痛の身にはつらい。
すぐに使うものはどうしてもスーツケースだ。
着るものは捨てて来いと言われている。
それでもノートパソコン2台。スキャナー、プリンターもある。
当面どうしても必要な本も10冊や20冊はあろう。これだけでも相当なものだ。
ところで、気ままなフランス生活も残り3週間だ。
帰りたくない。もう1年いたい。
やろうと思ったらできただろうが、師匠から絶対に帰って来いよと言われて出てきている。
いくつになっても師匠には逆らえないのがこの世界。
で、突然『ウオッカ=コーラ』。
先日訪ねたベルギーの友人が
『面白いから読んでみなよ』
と、上巻しかなかったものを無理やり『プレゼント』してくれたものだ。
ちょっと古い本だが、面白かった。確かに。
要するにニクソン=ブレジネフ以降の東西緊張緩和が、
世界中の生産様式を如何にして根底から変化、変更させたかの分析だ。
西側諸国の、企業と一体となった東側への長期借款によるプラントおよび生産ノウハウの提供、
このプラントを利用しての東側諸国での安価な労働力を利用しての商品生産、
生産された商品=現物による借款の返済(すなわち西側へのダンピング輸出)と言うスキームのもとで、
この『ウオッカ=コーラ』型生産様式が、労働市場をも含む西側市場を席巻して行った過程が分析されている。
こうした生産方式は、今ではまるで当然のことのようになっている。
現在の日本のとりわけ若者たち(に限らないが)の半奴隷的な長時間、低賃金、過密労働が、40年かけてこうやって作り出されてきたのかと、
これを読みながら、今日一日、地震、原発のショックと同じくらいどんよりした気分に陥っていた。
根が深い。解決の道筋どころではない。まさしく泥沼だ。
とりあえず、あした天気だけでも良くなってほしい。
気分だけでも明るくなりたい。
※ 下巻(英文)がいつ読まれるか自信が無いので、とりあえず上巻しか読んでない状態でのコメントだが、アップしておく。
訳文がなんとなくコンピューター翻訳のような感じで読みにくい。文体がいかにもフランス(翻訳)的だったので、てっきりフランス語かと思ったら、英文だったのでちょっとびっくり。
とりあえず、本の荷造りから。
段ボール5個くらいにはなりそうだ。
今リンゴ箱が2つある。それぞれ20㎏は優に超えている。
これを郵便局まで運ぶことを思うと気が滅入り、腰が萎える。
もちろん4階(日本式には5階)から地上階まで下すのも腰痛の身にはつらい。
すぐに使うものはどうしてもスーツケースだ。
着るものは捨てて来いと言われている。
それでもノートパソコン2台。スキャナー、プリンターもある。
当面どうしても必要な本も10冊や20冊はあろう。これだけでも相当なものだ。
ところで、気ままなフランス生活も残り3週間だ。
帰りたくない。もう1年いたい。
やろうと思ったらできただろうが、師匠から絶対に帰って来いよと言われて出てきている。
いくつになっても師匠には逆らえないのがこの世界。
で、突然『ウオッカ=コーラ』。
先日訪ねたベルギーの友人が
『面白いから読んでみなよ』
と、上巻しかなかったものを無理やり『プレゼント』してくれたものだ。
ちょっと古い本だが、面白かった。確かに。
要するにニクソン=ブレジネフ以降の東西緊張緩和が、
世界中の生産様式を如何にして根底から変化、変更させたかの分析だ。
西側諸国の、企業と一体となった東側への長期借款によるプラントおよび生産ノウハウの提供、
このプラントを利用しての東側諸国での安価な労働力を利用しての商品生産、
生産された商品=現物による借款の返済(すなわち西側へのダンピング輸出)と言うスキームのもとで、
この『ウオッカ=コーラ』型生産様式が、労働市場をも含む西側市場を席巻して行った過程が分析されている。
こうした生産方式は、今ではまるで当然のことのようになっている。
現在の日本のとりわけ若者たち(に限らないが)の半奴隷的な長時間、低賃金、過密労働が、40年かけてこうやって作り出されてきたのかと、
これを読みながら、今日一日、地震、原発のショックと同じくらいどんよりした気分に陥っていた。
根が深い。解決の道筋どころではない。まさしく泥沼だ。
とりあえず、あした天気だけでも良くなってほしい。
気分だけでも明るくなりたい。
※ 下巻(英文)がいつ読まれるか自信が無いので、とりあえず上巻しか読んでない状態でのコメントだが、アップしておく。
訳文がなんとなくコンピューター翻訳のような感じで読みにくい。文体がいかにもフランス(翻訳)的だったので、てっきりフランス語かと思ったら、英文だったのでちょっとびっくり。
『葬送』 平野啓一郎 (新潮文庫 全4冊)
2011年1月15日 読書
実は上手く整理がついていない。
2人の芸術家、音楽家と画家。生まれた環境も作風も、もちろん芸術のジャンルも異なる。
この2人が出会い、深く共感し合い、共鳴し合い、
数多くの友人をともにしながら、
物語が語られていく。
ピアノの貴公子ショパン。言うまでもなく誰もが知っており、誰からも愛され、
もちろん天分にも恵まれ華のある生涯を送ったかの様に昔思っていたが、
故国を離れ、国を、友を、家族を遠くから思いつつ、その生涯を送った。
さらにまるで異質であるように思えるジョルジュ・サンドとの出会いと別れ。
病を抱え、燃え尽きるように短い生涯を終えた。
一方のドラクロワ。
ルーブルでもひと際目立つところに、大きな、数多くの絵が集められ、
否が応でもその絵画史上の足跡の大きさが目に飛び込む。
皆が手や鎌で草取りしていた時に、ブルドーザーでがさっと根こそぎ片づけるような、
大鑑巨砲主義の鼻持ちならない奴と無知ななっしーは思っていたのだが、
いや大きな誤解だった。
この2人を向こうとこちら、と言うより双子の太陽と言った方が良いだろうか、
に据えながら、その間で多くの人々が、なっしーのすぐ面前にいるかの様に、
そしてその話し声が聞こえるかの様にして物語が展開されていく。
ショパンとドラクロアは、
深く理解し合い、尊敬し合い、相手を思い、
相手のことを自分のことであるかのように悩みながら物語が展開されていく。
そして、物語は、ショパンの体調に合わせて少しずつ、少しずつ沈んでいって、
永遠の別れ。
涙無しで読むことは出来ない。
読んだあとの感動の深いこと。 あざといくらいに。
また、読み直している。何度も何度も部分的には読み直しながら読んだのだが。
-- 文書の文字数 --
文字数697
文字数(空白なし)696
漢字204 (29%)
ひらがな385 (55%)
カタカナ50 (7%)
英単語0
Unicode字0
40字行数(概算)73 (原稿用紙 4枚)
2人の芸術家、音楽家と画家。生まれた環境も作風も、もちろん芸術のジャンルも異なる。
この2人が出会い、深く共感し合い、共鳴し合い、
数多くの友人をともにしながら、
物語が語られていく。
ピアノの貴公子ショパン。言うまでもなく誰もが知っており、誰からも愛され、
もちろん天分にも恵まれ華のある生涯を送ったかの様に昔思っていたが、
故国を離れ、国を、友を、家族を遠くから思いつつ、その生涯を送った。
さらにまるで異質であるように思えるジョルジュ・サンドとの出会いと別れ。
病を抱え、燃え尽きるように短い生涯を終えた。
一方のドラクロワ。
ルーブルでもひと際目立つところに、大きな、数多くの絵が集められ、
否が応でもその絵画史上の足跡の大きさが目に飛び込む。
皆が手や鎌で草取りしていた時に、ブルドーザーでがさっと根こそぎ片づけるような、
大鑑巨砲主義の鼻持ちならない奴と無知ななっしーは思っていたのだが、
いや大きな誤解だった。
この2人を向こうとこちら、と言うより双子の太陽と言った方が良いだろうか、
に据えながら、その間で多くの人々が、なっしーのすぐ面前にいるかの様に、
そしてその話し声が聞こえるかの様にして物語が展開されていく。
ショパンとドラクロアは、
深く理解し合い、尊敬し合い、相手を思い、
相手のことを自分のことであるかのように悩みながら物語が展開されていく。
そして、物語は、ショパンの体調に合わせて少しずつ、少しずつ沈んでいって、
永遠の別れ。
涙無しで読むことは出来ない。
読んだあとの感動の深いこと。 あざといくらいに。
また、読み直している。何度も何度も部分的には読み直しながら読んだのだが。
-- 文書の文字数 --
文字数697
文字数(空白なし)696
漢字204 (29%)
ひらがな385 (55%)
カタカナ50 (7%)
英単語0
Unicode字0
40字行数(概算)73 (原稿用紙 4枚)
『漂流するトルコ』 小島剛一 (旅行人)
2010年10月29日 読書
バカンスのため引き取れないまま受付で眠っていた荷物を引き取った。
早速原稿用の資料をそっちのけで待ちかねていた『漂流するトルコ』を取り出し、読んだ。
押さえに押さえて遠慮がちに筆を進められたように感ぜられる、前著『もう一つ』に比べ、
かなり自由に筆を進められた感じで、前著で?と思っていた部分の謎解きが随所に見いだされる。
ただ、ヒッチハイク、野宿から飛行機、高級ホテルでの宿泊と月日が経ったことに伴う、香辛料の部分の大きな変化は否定できないが(ヒッチハイク旅行記の楽しみは本書にはない)、
著者と一緒に怒り、涙し、より一層感情移入して読むことが出来るのが前著との大きな違いであろうか。
この2つの著書から直接引き出すことは出来ないのだが、それにしても、この2つの著書の前提となっている基礎的作業そのものが、大変な作業であったことは自ずと伝わってくる。
2/3ほど読んだところでパンを買いに出た。アパートの前で偶然小島さんにお会いして、
「今読んでます、前著と比べながら読んでるので、少し手こずってます、またお食事の時にでもお話しさせてください」
とお別れした。
サインを頂こうと思っているが、2010年度研究費のシールが貼ってあった。どうしよう?
早速原稿用の資料をそっちのけで待ちかねていた『漂流するトルコ』を取り出し、読んだ。
押さえに押さえて遠慮がちに筆を進められたように感ぜられる、前著『もう一つ』に比べ、
かなり自由に筆を進められた感じで、前著で?と思っていた部分の謎解きが随所に見いだされる。
ただ、ヒッチハイク、野宿から飛行機、高級ホテルでの宿泊と月日が経ったことに伴う、香辛料の部分の大きな変化は否定できないが(ヒッチハイク旅行記の楽しみは本書にはない)、
著者と一緒に怒り、涙し、より一層感情移入して読むことが出来るのが前著との大きな違いであろうか。
この2つの著書から直接引き出すことは出来ないのだが、それにしても、この2つの著書の前提となっている基礎的作業そのものが、大変な作業であったことは自ずと伝わってくる。
2/3ほど読んだところでパンを買いに出た。アパートの前で偶然小島さんにお会いして、
「今読んでます、前著と比べながら読んでるので、少し手こずってます、またお食事の時にでもお話しさせてください」
とお別れした。
サインを頂こうと思っているが、2010年度研究費のシールが貼ってあった。どうしよう?
『トルコのもう一つの顔』 小島剛一 (中公新書)
2010年10月4日 読書
著者はストラスブール在住のトルコ語、もっというとトルコの少数民族言語の研究者で、
近著『漂流するトルコ』
(http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%82%E6%B5%81%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E2%80%95%E7%B6%9A%E3%80%8C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE%E9%A1%94%E3%80%8D-%E5%B0%8F%E5%B3%B6-%E5%89%9B%E4%B8%80/dp/4947702680)
が大評判だそうである。
ひょんなことで知り合いになり(小さな町ですからね)、この『もう一つの顔』は著者から献本頂いた著書である。
遠い国トルコが突然身近になったのは前回のフランス留学の時で、何人ものトルコ人留学生と知り合いになり
(恐らくそのうちの何人かは今や高官や大臣になっているだろう)、
また、貧乏所帯の我が家は、比較的安く済ますことができるシシカバブのサンドイッチが大好きで、公園でいつもこれをほおばっていた。
日本でトルコ料理がブームになるずっと前から、我が家では一大ブームであり、帰国後も美味しいトルコ料理が食べたい食べたいといつも言っていた。
『トルコのもう一つの顔』が出版されたのはちょうどその頃(91年2月)で、もしその時これを知っていれば、家族みんなで1度か2度トルコに足を運んでいたかもしれないが、
言語学をやりたいと思っていなかったわけではないナッシーは、諦めたことを今になってよかったと思うのではなく、その時思ってしまっただろう。
この著書はトルコ国内の少数民族言語の研究体験を綴ったものだ。
ただし、これは
好きとか憧れとかいった次元ではない、もっと突き動かされるような衝動と、それを結実させる大変な努力と才能、
心技体一体となった困難な作業が必要だと言うことが思い知らされてしまう体験談で、
トルコに憧れていた、なんて恥ずかしくて口に出せなくなってしまう衝撃的な体験談だ。
消えていってしまった、わが国にもかつてあったであろう言語と文化に思いを馳せ、
非才は非才なりに、多少できるようになった『標準』フランス語が、もうちょっと上手く読み書きできるようになるよう努力するとともに、
せっかく持ち帰ったのに書棚の飾りになってしまっているプロヴァンス語の文法書と辞書で、老後の楽しみを豊かにするくらいのことはしたいものだ。
近著『漂流するトルコ』
(http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%82%E6%B5%81%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E2%80%95%E7%B6%9A%E3%80%8C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE%E9%A1%94%E3%80%8D-%E5%B0%8F%E5%B3%B6-%E5%89%9B%E4%B8%80/dp/4947702680)
が大評判だそうである。
ひょんなことで知り合いになり(小さな町ですからね)、この『もう一つの顔』は著者から献本頂いた著書である。
遠い国トルコが突然身近になったのは前回のフランス留学の時で、何人ものトルコ人留学生と知り合いになり
(恐らくそのうちの何人かは今や高官や大臣になっているだろう)、
また、貧乏所帯の我が家は、比較的安く済ますことができるシシカバブのサンドイッチが大好きで、公園でいつもこれをほおばっていた。
日本でトルコ料理がブームになるずっと前から、我が家では一大ブームであり、帰国後も美味しいトルコ料理が食べたい食べたいといつも言っていた。
『トルコのもう一つの顔』が出版されたのはちょうどその頃(91年2月)で、もしその時これを知っていれば、家族みんなで1度か2度トルコに足を運んでいたかもしれないが、
言語学をやりたいと思っていなかったわけではないナッシーは、諦めたことを今になってよかったと思うのではなく、その時思ってしまっただろう。
この著書はトルコ国内の少数民族言語の研究体験を綴ったものだ。
ただし、これは
好きとか憧れとかいった次元ではない、もっと突き動かされるような衝動と、それを結実させる大変な努力と才能、
心技体一体となった困難な作業が必要だと言うことが思い知らされてしまう体験談で、
トルコに憧れていた、なんて恥ずかしくて口に出せなくなってしまう衝撃的な体験談だ。
消えていってしまった、わが国にもかつてあったであろう言語と文化に思いを馳せ、
非才は非才なりに、多少できるようになった『標準』フランス語が、もうちょっと上手く読み書きできるようになるよう努力するとともに、
せっかく持ち帰ったのに書棚の飾りになってしまっているプロヴァンス語の文法書と辞書で、老後の楽しみを豊かにするくらいのことはしたいものだ。
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『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ 土屋政雄訳
2010年10月2日 読書 コメント (1)
宇宙空間を遠く隔てたところに確かに目的の天体がある。
宇宙船が進むに連れて、この目的の天体との間にある一枚一枚のベールが剥がされ、確かに近づいていくが、
ベールが剥がれても何も新しくは見えて来ない。
しかもベールが剥がされても、その時は、何が剥がされたのか、その中身すら必ずしも明らかではない。
ただ、確かに少しずつ、少しずつ近づいていることは分かる。依然として目的の天体は、遠く、遠く、おぼろげな姿のままではあるが。
一語一語、一文一文が大変緻密に構成されていて、かつ一つ一つの表現がとても繊細で、美しい。
平易で読みやすいのに、その存在感は圧倒的だ。
読み進むうちに、何度も何度も涙がこぼれそうになる。
にもかかわらず、最後に、突然に目的地にたどり着き、すべてのベールが剥がされたとき訪れる大きく、深い驚きと感動。
この感動をどう表現したらいいのか。
いや、ただただ読み直せば良いのだろうが、
読み終えてすぐ読み直したいと思う小説は、
そう数多くあるものではない。
※『日の名残り』 (Les Vestiges du jour) も読んでみたくなっちゃいました。フランス語版はどこかで手に入れるとして、帰国までオアズケかな。
村上春樹にはない『感動』がありますね。これを感動と呼んでいいのかどうか、分かりませんが。まだ1冊しか読んでいないけど。
宇宙船が進むに連れて、この目的の天体との間にある一枚一枚のベールが剥がされ、確かに近づいていくが、
ベールが剥がれても何も新しくは見えて来ない。
しかもベールが剥がされても、その時は、何が剥がされたのか、その中身すら必ずしも明らかではない。
ただ、確かに少しずつ、少しずつ近づいていることは分かる。依然として目的の天体は、遠く、遠く、おぼろげな姿のままではあるが。
一語一語、一文一文が大変緻密に構成されていて、かつ一つ一つの表現がとても繊細で、美しい。
平易で読みやすいのに、その存在感は圧倒的だ。
読み進むうちに、何度も何度も涙がこぼれそうになる。
にもかかわらず、最後に、突然に目的地にたどり着き、すべてのベールが剥がされたとき訪れる大きく、深い驚きと感動。
この感動をどう表現したらいいのか。
いや、ただただ読み直せば良いのだろうが、
読み終えてすぐ読み直したいと思う小説は、
そう数多くあるものではない。
※『日の名残り』 (Les Vestiges du jour) も読んでみたくなっちゃいました。フランス語版はどこかで手に入れるとして、帰国までオアズケかな。
村上春樹にはない『感動』がありますね。これを感動と呼んでいいのかどうか、分かりませんが。まだ1冊しか読んでいないけど。
『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫) 網野善彦 著
2010年7月7日 読書 コメント (3)
こんな面白い日本史があったのか、と思う。
が、このスケールの大きい書物を上手く評価、紹介するのは手に余る。
本当はこの文章を読まないで直接読んで欲しいところだ。
この『日本の歴史をよみなおす(全)』は、正編、続編の二冊の『よみなおす』を合本にしたものだが、もともとはある出版社内で内輪に話したものを活字化したもので、易しい語り口である。
正編の方は、「文字」、「貨幣」、「賤視」、「天皇」など歴史上重要なキーワードを歴史縦断的に捉え、
続編の方では、日本は海に囲まれた孤立した、貧しい農業社会で、とりわけ明治以降ヨーロッパの近代産業を取り入れて先進国の仲間入りをした、という我々が持っている思い込みを、『正史』からこぼれた資料を基に捉え直そうとしたものだ。
われわれは、江戸時代において水吞百姓が人口の7割を占めると聞くと、吞まず食わずの農民が人口の7割もいるのかと思ってしまう。
ところが、本来、水呑とは課税対象としての石高、すなわち課税対象の農地を持たない人のことであり、百姓とは農民も含んで様々な職業の人を言うのだとすると、
先ほどの水呑百姓7割というのは、《課税対象の農地》を持っていない人が人口の7割いる、という事を意味するに過ぎない。
例えば商業、漁業、廻船業、鉱業、養蚕、製陶、織布、要するに課税対象の田を持っていない、本業が他にある人たちが(本当の吞まず食わずの人を含んで) 、人口の7割を占める訳だ。
飲まず食わずの農民が7割いる、というのとは社会そのものの評価ががらっと変わってしまう。
この思い込みというか思い違いは、土地を課税の対象とし、その土地を基礎に全ての「国民」を把握しようとした班田収授法以来の律令国家体制の伝統から、正史の資料には土地と農業しか残ってこなかった事に原因がある。
しかも、その律令国家体制は、13~15世紀にかけて完全に崩壊してしまうが、その後も、農地を基礎にした『書類上』の農本主義的国家体制が存続した事によって、実態としても農本主義国家が存続したとの思い込みが起こってしまったのだと本書で指摘されている。
では、律令国家体制が崩壊してしまった、13世紀以降の我が国はどのような社会だったのか?
実は日本列島は、一方では農業国家であったのもその通りだが、国内的にも対外的にも、海・川という大きな交通路をも持った大交易商業国家の一面も兼ね備えていたのである。
対外的には、北は樺太からロシアへ、西はもちろん朝鮮半島もしくは中国へと繋がる海の道を通じて(実際はもっと広く交易が行われていたらしい)。
国内的にも、通常の陸の街道だけではなく、川の道、海の道、また山の道をも通じて、米以外の農業生産物、絹や陶器、鉱業生産物や、外国から持ち込まれた商品など様々な物資が運ばれ、それらが市で取引され、さらに手形によって決済される、こうした農本国家とは異なる商業国家の側面も併せ持ち、両者のせめぎ合いからその後重商主義へと向かって行った社会であった。
そして、この社会変動が《正編》で取り扱われるいくつかの重要観念の内実を大きく変えさせる原動力ともなったのである。
例えば非人という言葉も、もともとは差別的なニュアンスを含んだものではなかったが、それが差別的なものとなっていくそのメカニズム、聖別から差別へのメカニズムが分析されて、さらに農民や女性その他に対する蔑視も同時に起こってくることも示されている。
いずれにしても、ここではうまく紹介しきれないので、是非ご一読を。
が、このスケールの大きい書物を上手く評価、紹介するのは手に余る。
本当はこの文章を読まないで直接読んで欲しいところだ。
この『日本の歴史をよみなおす(全)』は、正編、続編の二冊の『よみなおす』を合本にしたものだが、もともとはある出版社内で内輪に話したものを活字化したもので、易しい語り口である。
正編の方は、「文字」、「貨幣」、「賤視」、「天皇」など歴史上重要なキーワードを歴史縦断的に捉え、
続編の方では、日本は海に囲まれた孤立した、貧しい農業社会で、とりわけ明治以降ヨーロッパの近代産業を取り入れて先進国の仲間入りをした、という我々が持っている思い込みを、『正史』からこぼれた資料を基に捉え直そうとしたものだ。
われわれは、江戸時代において水吞百姓が人口の7割を占めると聞くと、吞まず食わずの農民が人口の7割もいるのかと思ってしまう。
ところが、本来、水呑とは課税対象としての石高、すなわち課税対象の農地を持たない人のことであり、百姓とは農民も含んで様々な職業の人を言うのだとすると、
先ほどの水呑百姓7割というのは、《課税対象の農地》を持っていない人が人口の7割いる、という事を意味するに過ぎない。
例えば商業、漁業、廻船業、鉱業、養蚕、製陶、織布、要するに課税対象の田を持っていない、本業が他にある人たちが(本当の吞まず食わずの人を含んで) 、人口の7割を占める訳だ。
飲まず食わずの農民が7割いる、というのとは社会そのものの評価ががらっと変わってしまう。
この思い込みというか思い違いは、土地を課税の対象とし、その土地を基礎に全ての「国民」を把握しようとした班田収授法以来の律令国家体制の伝統から、正史の資料には土地と農業しか残ってこなかった事に原因がある。
しかも、その律令国家体制は、13~15世紀にかけて完全に崩壊してしまうが、その後も、農地を基礎にした『書類上』の農本主義的国家体制が存続した事によって、実態としても農本主義国家が存続したとの思い込みが起こってしまったのだと本書で指摘されている。
では、律令国家体制が崩壊してしまった、13世紀以降の我が国はどのような社会だったのか?
実は日本列島は、一方では農業国家であったのもその通りだが、国内的にも対外的にも、海・川という大きな交通路をも持った大交易商業国家の一面も兼ね備えていたのである。
対外的には、北は樺太からロシアへ、西はもちろん朝鮮半島もしくは中国へと繋がる海の道を通じて(実際はもっと広く交易が行われていたらしい)。
国内的にも、通常の陸の街道だけではなく、川の道、海の道、また山の道をも通じて、米以外の農業生産物、絹や陶器、鉱業生産物や、外国から持ち込まれた商品など様々な物資が運ばれ、それらが市で取引され、さらに手形によって決済される、こうした農本国家とは異なる商業国家の側面も併せ持ち、両者のせめぎ合いからその後重商主義へと向かって行った社会であった。
そして、この社会変動が《正編》で取り扱われるいくつかの重要観念の内実を大きく変えさせる原動力ともなったのである。
例えば非人という言葉も、もともとは差別的なニュアンスを含んだものではなかったが、それが差別的なものとなっていくそのメカニズム、聖別から差別へのメカニズムが分析されて、さらに農民や女性その他に対する蔑視も同時に起こってくることも示されている。
いずれにしても、ここではうまく紹介しきれないので、是非ご一読を。
ケインズ説得論集 [著]J・M・ケインズ の紹介について
2010年6月9日 読書 コメント (2)
※本来読んでから批評すべきでしょうが、単なる印象批評であることをお許しください。
う~む。
なんだかピント度外れのような気がする。
(http://book.asahi.com/review/TKY201006080148.html)
「ものを買えば雇用が増えます。もっとも、イギリス製の商品を買わなければなりません。国内の雇用を増やすには、国内で生産された商品を買わねばなりません。…」
えっと耳を疑ってしまう。
だいたい、穴を掘ってそれを埋めても、それで『富=賃金』が生み出され社会が豊かになる、と言った(らしい=ケインズ読んでないのでこれで良いのか分かりませんが)ケインズを、今持ち出して
「国産品を買いましょう」
だなんて。
だいたい、今、国内で生産された商品なんて、どこにあるんだろう?
農薬まみれの米くらい?
野菜等も含めて国内の商品は、ほとんどが中国産(冷凍野菜だけじゃなくナマもですよ!)か東南アジア産。
ハンバーグなんて東南アジア産のミミズで出来ている『らしい』
(ただミミズに限って言うと、大変弱い生き物なので、よっぽど環境を整えないと育たないらしく、薬漬け牛100%よりずっと安全、安心だそうですよ)
と言う時代に。
ひょっとして、国内に工場を持って来い?
では、ないですよね?
息づかいが感じられるくらいの大きさの単位で(経済、社会、政治的に自立した)コミュニティーを整えて、
そうした自立したコミュニティーの連合体が、例えば県、地方(関東と言った単位の一回り大きな自治体)、国、国際連合体(東アジア共同体とか、ASEANのような)へと広がっていく、
そして自立したコミュニティというのは生産体としても自立すると言うこと。
基本的には『そこ』で必要な物は『そこ』で作る
(車は『輸入』が必要でしょうが)。
そうした社会的仕組みを作ることが必要で、
限りある資源を皆でどのようにして利用していくか、そうした仕組みそのものを作り出す事が必要なのではないかと思うわけで、
その第一歩が原則としての、地産地消+適地生産・消費地消費ではないのかな?
ただ、神の見えざる手は膨大な浪費を生むが、他方で計画経済は計画経済で(要らない物を作り続けるなど)膨大な浪費を生むのも歴史的教訓としてある。
経済の仕組みと同時に政治の仕組みも含む大きな改革が必要で、素人のコメントの域を外れた難しい問題に入って行くが、
少なくとも
『国産品を買いましょう』
と言う次元の問題ではないような気がする。
すみません専門外でこっちもピント外れのコメント( ← 何にでも一言言いたい悪い癖 (--; )かも知れないけど。
う~む。
なんだかピント度外れのような気がする。
(http://book.asahi.com/review/TKY201006080148.html)
「ものを買えば雇用が増えます。もっとも、イギリス製の商品を買わなければなりません。国内の雇用を増やすには、国内で生産された商品を買わねばなりません。…」
えっと耳を疑ってしまう。
だいたい、穴を掘ってそれを埋めても、それで『富=賃金』が生み出され社会が豊かになる、と言った(らしい=ケインズ読んでないのでこれで良いのか分かりませんが)ケインズを、今持ち出して
「国産品を買いましょう」
だなんて。
だいたい、今、国内で生産された商品なんて、どこにあるんだろう?
農薬まみれの米くらい?
野菜等も含めて国内の商品は、ほとんどが中国産(冷凍野菜だけじゃなくナマもですよ!)か東南アジア産。
ハンバーグなんて東南アジア産のミミズで出来ている『らしい』
(ただミミズに限って言うと、大変弱い生き物なので、よっぽど環境を整えないと育たないらしく、薬漬け牛100%よりずっと安全、安心だそうですよ)
と言う時代に。
ひょっとして、国内に工場を持って来い?
では、ないですよね?
息づかいが感じられるくらいの大きさの単位で(経済、社会、政治的に自立した)コミュニティーを整えて、
そうした自立したコミュニティーの連合体が、例えば県、地方(関東と言った単位の一回り大きな自治体)、国、国際連合体(東アジア共同体とか、ASEANのような)へと広がっていく、
そして自立したコミュニティというのは生産体としても自立すると言うこと。
基本的には『そこ』で必要な物は『そこ』で作る
(車は『輸入』が必要でしょうが)。
そうした社会的仕組みを作ることが必要で、
限りある資源を皆でどのようにして利用していくか、そうした仕組みそのものを作り出す事が必要なのではないかと思うわけで、
その第一歩が原則としての、地産地消+適地生産・消費地消費ではないのかな?
ただ、神の見えざる手は膨大な浪費を生むが、他方で計画経済は計画経済で(要らない物を作り続けるなど)膨大な浪費を生むのも歴史的教訓としてある。
経済の仕組みと同時に政治の仕組みも含む大きな改革が必要で、素人のコメントの域を外れた難しい問題に入って行くが、
少なくとも
『国産品を買いましょう』
と言う次元の問題ではないような気がする。
すみません専門外でこっちもピント外れのコメント( ← 何にでも一言言いたい悪い癖 (--; )かも知れないけど。
『時刻表2万キロ』(宮脇俊三)河出文庫他
2010年5月31日 読書 コメント (1)
今1冊だけ持ってきている他の著者の《時刻表物》を読んでいて、無性に読み返したくなった『時刻表2万キロ』。
実は持ってこようと思って置いてきたのだ。
伯父がJTBの前身に勤めていて、時刻表のお下がりを時々置いていってくれていた。
あ、この電車が、向こうに行ったら名前を変えて、この電車になって、また元の名前になって途中まで行って、帰って来て…、
と言う不思議な現象に気づいてしまい、まだ見ぬ都会の街並みを想像したり、
途中の海岸縁や、山間の景色を想像したりしながら、時間を過ごしていた。
小学校3,4年生の頃だ。
ただ、
「本を読む暇があったら、田んぼに肥料を運んで、草取りをしておいで」
という環境で、社会全体が、少なくとも都会と違って田舎では
『テツ』などということなど到底考えられないほど貧しかった。
本を読むことすら結構抵抗がある環境だ。
そのまま普通に高校・浪人・大学…(いや、結構紆余曲折はあったが)と進み、
大学院で研究者の端くれになったと自分で勝手に思っていた頃、妻が
「お勤めしながら国鉄の全線踏破した人がいるんだって」
と、新聞を読んで教えてくれたのがこの『2万キロ』の著者のことだった。
「ああ、勤め人でもやろうと思えば出来るんだ」
とは思ったが、妻食主義(自分でも奨学金を含めてそれなりに収入はあったが)の手前、
「自分もやりたいなぁ」
とは言い出せず、活字だけの全線踏破に終わった。
ちなみに『鉄子』の横見氏の全駅踏破も妻の新聞情報だった。
同じような妻食主義の大学院生がいて、
「先生も隠れ『テツ』だったんですね」
とうれしそうに言って
(彼にはそれなりにテツを実践するだけの経済的余力はある=今の若手は良いなあ…と思う)、
二人で時々こそこそっとその方面の話をしたりする。
帰国したらテツかチャリかウオーキングか、
(なんだか両立しそうな気はするが)、貧乏肉体派研究者の悩みは深い。
あ、テニスは外せないので、この4項が複雑に絡んだ関数式に、
果たして解は見つかるのだろうか。
稼がなきゃだめだな…。
実は持ってこようと思って置いてきたのだ。
伯父がJTBの前身に勤めていて、時刻表のお下がりを時々置いていってくれていた。
あ、この電車が、向こうに行ったら名前を変えて、この電車になって、また元の名前になって途中まで行って、帰って来て…、
と言う不思議な現象に気づいてしまい、まだ見ぬ都会の街並みを想像したり、
途中の海岸縁や、山間の景色を想像したりしながら、時間を過ごしていた。
小学校3,4年生の頃だ。
ただ、
「本を読む暇があったら、田んぼに肥料を運んで、草取りをしておいで」
という環境で、社会全体が、少なくとも都会と違って田舎では
『テツ』などということなど到底考えられないほど貧しかった。
本を読むことすら結構抵抗がある環境だ。
そのまま普通に高校・浪人・大学…(いや、結構紆余曲折はあったが)と進み、
大学院で研究者の端くれになったと自分で勝手に思っていた頃、妻が
「お勤めしながら国鉄の全線踏破した人がいるんだって」
と、新聞を読んで教えてくれたのがこの『2万キロ』の著者のことだった。
「ああ、勤め人でもやろうと思えば出来るんだ」
とは思ったが、妻食主義(自分でも奨学金を含めてそれなりに収入はあったが)の手前、
「自分もやりたいなぁ」
とは言い出せず、活字だけの全線踏破に終わった。
ちなみに『鉄子』の横見氏の全駅踏破も妻の新聞情報だった。
同じような妻食主義の大学院生がいて、
「先生も隠れ『テツ』だったんですね」
とうれしそうに言って
(彼にはそれなりにテツを実践するだけの経済的余力はある=今の若手は良いなあ…と思う)、
二人で時々こそこそっとその方面の話をしたりする。
帰国したらテツかチャリかウオーキングか、
(なんだか両立しそうな気はするが)、貧乏肉体派研究者の悩みは深い。
あ、テニスは外せないので、この4項が複雑に絡んだ関数式に、
果たして解は見つかるのだろうか。
稼がなきゃだめだな…。
『こぐこぐ自転車 』(伊藤礼)
2010年5月25日 読書 コメント (2)以前から自転車がやりたいと思っていて、
もう10年(にはならないか。さすがに)くらい
ずっと小蔵大臣と予算折衝中なんだが、なかなか査定がつかない。
そこで、自転車の代わりに本屋で見かけて買ったのがこの本だ。
『こぐこぐ自転車 』(伊藤礼)
このくらいであれば大臣の承認なしでの現場裁量権は与えられている。
定年を前にした大学教授が、ふと大学まで自転車で行ってみようと思って、
世田谷だか杉並から江古田まで、死ぬ思いでたどり着いて、その後自転車にはまり込んでいく話。
文章が秀逸で、出てくるエピソードも、
いかにもありそうでなさそうな、でもあってもおかしくない
(というかおかしいそのものの)
エピソードの連続だ。
さて、名前から想像されるとおりで、この『こぐこぐ』の著者、礼氏は、伊藤整氏のご令息で、さすがにさすがだとしか言いようがない。
正編(『こぐこぐ』)の方がずっと面白いが、実際に乗るようになると続(『ぎこぎこ』)の良さが分かるような気がする。
なお、著者は、自転車のおかげで、長年、ず~っと抱えていた病気が快癒されたそうだ(続編の後書きにあった、…と思う)。
さて、なっシーの自転車だが、実は、今は日本で自転車を買うのが世界で一番安いそうで、それを根拠に小蔵大臣とさんざん折衝したが、
「フランスの方が本場なんだから欲しければ向こうで買ってきたら」
と、冷たくあしらわれたまま、こちらに来てしまった。
長年患っている『金欠病』の快癒のためには、自転車を買わないのが最良の治療法とは分かっているのだが。
それにしても欲しい。 自転車が。
『本の読み方ースロー・リーディングの実践』 平野啓一郎
2010年5月20日 読書
なっしーの学部では、新入生向けに、いわば大学生入門のようなゼミをおいていて、
その教材として、なっしーは
『日蝕』の平野啓一郎氏によるこの『スロー・リーディングの実践』と、
『薔薇の名前』のウンベルト・エーコの『論文作法』
を読ませることにしている。
今回時間がある(と言うかあり過ぎる)ので
『スロー・リーディング』
を持って来て、改めて読み直したが、
このスロー・リーディングを、なんと、ものすごく《ファスト・リーディング》していたことか、と反省している。
この本の内容は、読んでのお楽しみ、と言うことにしたいが
(ではお前が今書いているのは何なんだと言われそうだが)、
いずれにしても、われわれは、どうしても速く読まなければならないという強迫観念のようなものがあって、先へ先へと急ぎ勝ちだが、
ただ、たとえば一冊の本を書くのに、
著者がどれだけ時間をかけて構想し、資料を集め、書き、書き直し、また書き直しをしたかを思えば、
それこそ数時間で読む、読んだ気になるというのは、著者に大変失礼なことではあろう。
読書は著者との対話であるが格闘でもある。
もっとも、中にはあんまり失礼にならないような著者や著作があるのは事実なので、その辺は自分で判断し、また、他人のアドバイスをもらえば良い(ただし鵜呑みにしないように)。
『スロー・リーディング』の中で、
読者と川端の面白い対決が紹介されていたり、
また、平野氏自身が自著を解剖しているところなど、
一般読者にとっても大変興味深いものだろう。
なお、学生には、
この本の最後にある『性の歴史I』(ミシェル・フーコー)を題材にした、
文章を《視覚化》するテクニックを体験させるなどして、
読み方のテクニックのひとつを学ばせるようにしている。
※ ゼミではもうひとつ資料の集め方、論文の書き方について『論文作法』を用いてこれも実践的にやらせているが、これも興味あればどうぞ。
なお、この『論文作法』はいんちき論文を書いている多くの学者を揶揄したものと言われているそうだが、ちょっと胃の辺りがシクシクする話ではある。
その教材として、なっしーは
『日蝕』の平野啓一郎氏によるこの『スロー・リーディングの実践』と、
『薔薇の名前』のウンベルト・エーコの『論文作法』
を読ませることにしている。
今回時間がある(と言うかあり過ぎる)ので
『スロー・リーディング』
を持って来て、改めて読み直したが、
このスロー・リーディングを、なんと、ものすごく《ファスト・リーディング》していたことか、と反省している。
この本の内容は、読んでのお楽しみ、と言うことにしたいが
(ではお前が今書いているのは何なんだと言われそうだが)、
いずれにしても、われわれは、どうしても速く読まなければならないという強迫観念のようなものがあって、先へ先へと急ぎ勝ちだが、
ただ、たとえば一冊の本を書くのに、
著者がどれだけ時間をかけて構想し、資料を集め、書き、書き直し、また書き直しをしたかを思えば、
それこそ数時間で読む、読んだ気になるというのは、著者に大変失礼なことではあろう。
読書は著者との対話であるが格闘でもある。
もっとも、中にはあんまり失礼にならないような著者や著作があるのは事実なので、その辺は自分で判断し、また、他人のアドバイスをもらえば良い(ただし鵜呑みにしないように)。
『スロー・リーディング』の中で、
読者と川端の面白い対決が紹介されていたり、
また、平野氏自身が自著を解剖しているところなど、
一般読者にとっても大変興味深いものだろう。
なお、学生には、
この本の最後にある『性の歴史I』(ミシェル・フーコー)を題材にした、
文章を《視覚化》するテクニックを体験させるなどして、
読み方のテクニックのひとつを学ばせるようにしている。
※ ゼミではもうひとつ資料の集め方、論文の書き方について『論文作法』を用いてこれも実践的にやらせているが、これも興味あればどうぞ。
なお、この『論文作法』はいんちき論文を書いている多くの学者を揶揄したものと言われているそうだが、ちょっと胃の辺りがシクシクする話ではある。
『「お墓」の誕生』 岩田重則(岩波新書)
2010年5月13日 読書
「お墓」のあり方の変遷を通して死者を祀ることの意味、その変遷を取り扱ったもので、大変面白かった。
お盆の迎え火、送り火と墓参り、先祖供養の中にも重層的なさまざまな意味合いを持った行為が行われていて、もはやそれを行っている者にとってもはっきりとした意味づけが見出せないようなものが多く含まれている。
先祖祭祀といえばもうひとつは墓であるが、これにもさまざまな形態があって、風葬、土葬、火葬といった死者の弔い方と、その死者への祭祀の対象としての墓のあり方との関連もなかなか一筋縄では整理できないものがあるようだ(著者は一定の結論を出している)。
そして、現在われわれがごく普通のことと感じているであろう、火葬+先祖代々の墓(+カロウト=納骨室)と言う形態の死者の祀り方は、極々最近の出来事で、石塔形態の墓すらそう古いものではない。この新しい「墓」の形態は、従来の民俗的事象としての先祖、死者祭祀のあり方とはかなり離れた祭祀の形態であり、しかも非常に政治的色彩の強い事象であるといった指摘は大変興味深い。
いずれにせよ興味ある民俗事象の読み解きを通じて先祖祭祀のあり方を取り扱ったもので、紹介されている事象そのものが大変興味深いし、その読み解きも大変面白い。
ところで、なっしーが子供の頃には、まだ土葬が残っており、お棺の上に少しずつ土をかけ、少しずつお別れしていくという悲しさ、寂しさを感じることがあったが、今の火葬は、いかにも事務的で、いや、それはそれであっけらかんとしていいとも思うが、そのことが我々の死生観に対しても大きな影響を与え、あっけらかんとした重大事件が引き起こされる遠因の一つになっているのかも知れない、などと本筋とは違う感想を持ちながら読んだ。
ただ、これはおそらく逆で、人の「死」すなわち、人の「生」を『二つとありえない』重大なものと感じないようなあっけらかんとした我々の死生観が、そうしたあっけらかんとした「お別れの形態」を好み、それが一般化するのだろうけれど。
著書として、全体の構成が少し甘いような気がしないでもないが、また、なっしーが経験してきたことから言うと、捉え方が違うのではないか、と思う部分も無いではないが(ただ、なっしーの体験はごく一部の地域のごく限られた一時代の個人的体験でしかないので、一般化はできない)、最近とても面白いと思った本である(出版は2006年)。
お盆の迎え火、送り火と墓参り、先祖供養の中にも重層的なさまざまな意味合いを持った行為が行われていて、もはやそれを行っている者にとってもはっきりとした意味づけが見出せないようなものが多く含まれている。
先祖祭祀といえばもうひとつは墓であるが、これにもさまざまな形態があって、風葬、土葬、火葬といった死者の弔い方と、その死者への祭祀の対象としての墓のあり方との関連もなかなか一筋縄では整理できないものがあるようだ(著者は一定の結論を出している)。
そして、現在われわれがごく普通のことと感じているであろう、火葬+先祖代々の墓(+カロウト=納骨室)と言う形態の死者の祀り方は、極々最近の出来事で、石塔形態の墓すらそう古いものではない。この新しい「墓」の形態は、従来の民俗的事象としての先祖、死者祭祀のあり方とはかなり離れた祭祀の形態であり、しかも非常に政治的色彩の強い事象であるといった指摘は大変興味深い。
いずれにせよ興味ある民俗事象の読み解きを通じて先祖祭祀のあり方を取り扱ったもので、紹介されている事象そのものが大変興味深いし、その読み解きも大変面白い。
ところで、なっしーが子供の頃には、まだ土葬が残っており、お棺の上に少しずつ土をかけ、少しずつお別れしていくという悲しさ、寂しさを感じることがあったが、今の火葬は、いかにも事務的で、いや、それはそれであっけらかんとしていいとも思うが、そのことが我々の死生観に対しても大きな影響を与え、あっけらかんとした重大事件が引き起こされる遠因の一つになっているのかも知れない、などと本筋とは違う感想を持ちながら読んだ。
ただ、これはおそらく逆で、人の「死」すなわち、人の「生」を『二つとありえない』重大なものと感じないようなあっけらかんとした我々の死生観が、そうしたあっけらかんとした「お別れの形態」を好み、それが一般化するのだろうけれど。
著書として、全体の構成が少し甘いような気がしないでもないが、また、なっしーが経験してきたことから言うと、捉え方が違うのではないか、と思う部分も無いではないが(ただ、なっしーの体験はごく一部の地域のごく限られた一時代の個人的体験でしかないので、一般化はできない)、最近とても面白いと思った本である(出版は2006年)。
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『ディスタンクション I 、 II』 P. ブルデュー (藤原書店)
2010年4月24日 読書 コメント (1)
ディスタンクションというのは英語のdistinctionで、ちょっと古いが、狐狸庵先生・遠藤周作の『違いがわかる』ゴールドブレンドの『違いが分かること』をさす。
要するに、好きになるか嫌いになるかの問題なのだが『好きになる』というのは他の事を捨てて、その物、その事が好きになるわけだ。
では、なぜ好きになるか。
それはその対象のことがよく分かるからだ。
ではなぜその対象が良く分かるのかというと、それに接している時間が長いからだ。
接している時間が長ければ、そのこと、その対象が良く分かって来て、そして、好きになる、ということになる。
すなわち、よく分かって、好きになれば、もっと知りたくて、もっとよく分かるようになり、もっと好きになるということだが、ちょっと好きなんだけどそれが自由にもっと好きになることができなければ、かえって嫌いになる。
いわば「あの葡萄はすっぱい」、「可愛さ余って憎さ百倍」というな状態に陥ることになる。
これがいわゆるコンプレックスで、好きだけど嫌い、嫌いだけど好きというアンビバレント状態を示している(なっしーの解釈です)。
ここから始まって、たとえば、職業は遺伝する、趣味も遺伝するという話になってくるのだが、好きなものを手に入れることができるためには、経済的な裏づけが必要で、もしそれがなければ「すっぱい葡萄」になるわけだ。
たとえば女性に向かって、自分の中でどの部分が好きですか?
と訊ねて、ちょっと左の目が釣り上がっているところ、と答える人がいるとすると、その人は自分の顔を良く観察していることを示している。
あんまり観察していない人はどう答えるか。
肌が綺麗だとか、優しそうなところだ、とかといったような漠然とした答えになる。
顔を良く観察するためには、観察するだけの余裕と必要があるわけで、化粧品その他を購入することができる人、鏡の前に座ることができるだけの経済的・社会的・時間的な余裕と必要性があることを示している。
よく観察していると好きなところが段々絞られてくる、これが『違いが分かる』ということなのだ。
また、おそらく、たとえば三井物産と三菱商事でも、働いている人の顔、性格は明白・明確に違っている(はず)。
それが社風というものだ。
就職する時に応募者は社風を選び、社風の方では、社風に合うかどうかで採用されたり、されなかったりもしていく。こうやって、社風も『遺伝』して行く。
もっとも同族結婚が続き過ぎるとその一族は衰退していくので、『社風』も異端児を中に交えて同族結婚の弊害を除こうとする。その、見極めができるかどうかが『社風』実力の差なのだ。
では、好きな人(異性)は、どんな人と訊ねられて、どう答えるか?
普通は、お父さん、お母さんなのだ。一番接している時間が長いから。
ただ、自分に愛情を与えて欲しいという要求に応えなかった両親はどうなるか、とりわけ異性の親はどうなるかというと、すっぱい葡萄、いわばファーザーコンプレックス、マザーコンプレックスというわけだ。
で、兄弟姉妹にそっくりな人と結婚している人は幸せ、ということになるが、この『ディスタンクション 』にはもっともっと恐ろしくて嫌になるような分析がいっぱいなされているので興味があればどうぞ。
ただ恐ろしく難解で、10中8,9は投げ出すはずなので購入はお勧めしません。
ちなみに、我が家系はちょっと広い意味での『先生』がほとんどです。
商店主の子は商店主。サラリーマンの子はサラリーマン。
趣味や職業などというのも含めた生活スタイルとその生活スタイルを維持することができる、もしくは維持することしかできない経済的裏づけが、実は『遺伝』しているんですね。
資産が引き継がれ、好き・嫌いが引き継がれて、職業も『遺伝』するのだ。
もの凄く悲しい話。
子供は親を選べない。もちろん親も子を選べないが…。
※勝手読み『ディスタンクション』、一度書きかけて断念した紹介ですが(読みこなせていないし)、ほんのサワリだけを書きました。
本当はここが序論の序で、本丸はもっと別のところにあるようなんですが、お日柄もよく、じゃなかった、頃合いも良いのでこの辺でお開き、ということで。
要するに、好きになるか嫌いになるかの問題なのだが『好きになる』というのは他の事を捨てて、その物、その事が好きになるわけだ。
では、なぜ好きになるか。
それはその対象のことがよく分かるからだ。
ではなぜその対象が良く分かるのかというと、それに接している時間が長いからだ。
接している時間が長ければ、そのこと、その対象が良く分かって来て、そして、好きになる、ということになる。
すなわち、よく分かって、好きになれば、もっと知りたくて、もっとよく分かるようになり、もっと好きになるということだが、ちょっと好きなんだけどそれが自由にもっと好きになることができなければ、かえって嫌いになる。
いわば「あの葡萄はすっぱい」、「可愛さ余って憎さ百倍」というな状態に陥ることになる。
これがいわゆるコンプレックスで、好きだけど嫌い、嫌いだけど好きというアンビバレント状態を示している(なっしーの解釈です)。
ここから始まって、たとえば、職業は遺伝する、趣味も遺伝するという話になってくるのだが、好きなものを手に入れることができるためには、経済的な裏づけが必要で、もしそれがなければ「すっぱい葡萄」になるわけだ。
たとえば女性に向かって、自分の中でどの部分が好きですか?
と訊ねて、ちょっと左の目が釣り上がっているところ、と答える人がいるとすると、その人は自分の顔を良く観察していることを示している。
あんまり観察していない人はどう答えるか。
肌が綺麗だとか、優しそうなところだ、とかといったような漠然とした答えになる。
顔を良く観察するためには、観察するだけの余裕と必要があるわけで、化粧品その他を購入することができる人、鏡の前に座ることができるだけの経済的・社会的・時間的な余裕と必要性があることを示している。
よく観察していると好きなところが段々絞られてくる、これが『違いが分かる』ということなのだ。
また、おそらく、たとえば三井物産と三菱商事でも、働いている人の顔、性格は明白・明確に違っている(はず)。
それが社風というものだ。
就職する時に応募者は社風を選び、社風の方では、社風に合うかどうかで採用されたり、されなかったりもしていく。こうやって、社風も『遺伝』して行く。
もっとも同族結婚が続き過ぎるとその一族は衰退していくので、『社風』も異端児を中に交えて同族結婚の弊害を除こうとする。その、見極めができるかどうかが『社風』実力の差なのだ。
では、好きな人(異性)は、どんな人と訊ねられて、どう答えるか?
普通は、お父さん、お母さんなのだ。一番接している時間が長いから。
ただ、自分に愛情を与えて欲しいという要求に応えなかった両親はどうなるか、とりわけ異性の親はどうなるかというと、すっぱい葡萄、いわばファーザーコンプレックス、マザーコンプレックスというわけだ。
で、兄弟姉妹にそっくりな人と結婚している人は幸せ、ということになるが、この『ディスタンクション 』にはもっともっと恐ろしくて嫌になるような分析がいっぱいなされているので興味があればどうぞ。
ただ恐ろしく難解で、10中8,9は投げ出すはずなので購入はお勧めしません。
ちなみに、我が家系はちょっと広い意味での『先生』がほとんどです。
商店主の子は商店主。サラリーマンの子はサラリーマン。
趣味や職業などというのも含めた生活スタイルとその生活スタイルを維持することができる、もしくは維持することしかできない経済的裏づけが、実は『遺伝』しているんですね。
資産が引き継がれ、好き・嫌いが引き継がれて、職業も『遺伝』するのだ。
もの凄く悲しい話。
子供は親を選べない。もちろん親も子を選べないが…。
※勝手読み『ディスタンクション』、一度書きかけて断念した紹介ですが(読みこなせていないし)、ほんのサワリだけを書きました。
本当はここが序論の序で、本丸はもっと別のところにあるようなんですが、お日柄もよく、じゃなかった、頃合いも良いのでこの辺でお開き、ということで。
『老人力』 全一冊 赤瀬川原平 2001年9月第1冊発行 (ちくま文庫)
2010年4月20日 読書
10年ほど前、教務主任といういわば雑務の責任者をしていた事があって、入試の責任者も兼ねていた。
で、大変な失態をしてしまったのだ。
入試問題の校正の日を忘れ家でごろごろしていて、電話で呼び出され、あわてて駆けつけたが(2時間遅れ)、これが公務スケジュールを忘れた初めての記念日となった。
そのすぐ後、今度は自分の科目の試験日を間違え、1日前に監督をしに行ったが、これは当然だが事なきを得た。
当時、流行り言葉にもなっていて、「ああ、老人力がついてきたなぁ」と思わずつぶやいたところ、同僚が「まだまだだよ」と言い、「ほんとに読んでごらんよ。すごいから」、といわれて読んだ。
確かにすごい! まだまだ大丈夫だぞ。
その後、他人にも「後楽園のジャイアンツ戦」の話を引きながら、薦めていた。
「まだまだだ、って元気がつくから」と。
10年経って、なんだか赤瀬川氏の背中がすぐ前に見えるようになって来た気がして今回読み直した。
愕然とした、というか、唖然としたというか。
ほとんど中身を覚えていないのだ。
初めて読むかのように、まったく新鮮に読み直した。というか、読んだ。
しかも「後楽園のジャイアンツ戦」の話は、思っていたのとまるで話が違っていた。
老人力は記憶を失わせるだけでなく記憶を捏造する!
うすうす感じてはいたけれども。
で、大変な失態をしてしまったのだ。
入試問題の校正の日を忘れ家でごろごろしていて、電話で呼び出され、あわてて駆けつけたが(2時間遅れ)、これが公務スケジュールを忘れた初めての記念日となった。
そのすぐ後、今度は自分の科目の試験日を間違え、1日前に監督をしに行ったが、これは当然だが事なきを得た。
当時、流行り言葉にもなっていて、「ああ、老人力がついてきたなぁ」と思わずつぶやいたところ、同僚が「まだまだだよ」と言い、「ほんとに読んでごらんよ。すごいから」、といわれて読んだ。
確かにすごい! まだまだ大丈夫だぞ。
その後、他人にも「後楽園のジャイアンツ戦」の話を引きながら、薦めていた。
「まだまだだ、って元気がつくから」と。
10年経って、なんだか赤瀬川氏の背中がすぐ前に見えるようになって来た気がして今回読み直した。
愕然とした、というか、唖然としたというか。
ほとんど中身を覚えていないのだ。
初めて読むかのように、まったく新鮮に読み直した。というか、読んだ。
しかも「後楽園のジャイアンツ戦」の話は、思っていたのとまるで話が違っていた。
老人力は記憶を失わせるだけでなく記憶を捏造する!
うすうす感じてはいたけれども。
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