失語症

2010年12月13日 友達
失語症
 奥さんと旅行に来ているテニス仲間が、3時間ほどのストラスブール訪問を反古にして、おしゃべりに付き合ってくれた。

 別れるときに、

『やっぱり最初日本語がぎこちなかったですよ』

と笑って別れた。

 プティットフランスで落ち合って、少し歩き、それからカテドラルへ。

 マルシェ・ド・ノエルで、ホットワイン(ヴァン・ショ・ミエル=蜂蜜入りホットワイン) を飲み、マルシェで買った駄菓子を一袋と、

美味しいと言われているショコラティエのショコラを、一つは友人用に、

また、別の一つをテニス仲間用に預けた。

 人と話をするのはやはり楽しい。

 人は言葉を話す動物だと言われるが、

確かに話すだけで、気持ちも身体も、柔らかくほぐれてくる。

 ただ、なっしーはとてもおしゃべりだが、実は他人と話すのは苦手だ。

 誰もが、そうは見えない、と言うし、本当におしゃべりなのだが、

実際に話すことができる人は、10人か20人に1人くらいしかいない。

 近代的防空体制のように、なっしーの周りには防空レーダー網が張り巡らされていて、

 ただ、防空体制は侵入機があると迎撃に向かうが、

なっしーの場合は、逃げるが勝ち、だから目立たない。

 まあ、いわば猫の気配を感じて逃げるねずみのような感じだ。
 
 ところで、昔、性病はフランス病と呼ばれていたそうだ。

 そして、ここ、プティットフランスには性病のための医療施設があって、

フランスを象徴するような場所の意味でプティットフランスと呼ばれていたそうですよ、

と聞きかじりの話をし(隣でフランス語で同じことを言っていた)、

 今では、ここにはエナ(ENA)という、高級官僚養成機関があって

(パリから引っ越してきた。いわゆるグランゼコールと呼ばれる大学院相当の教育機関で、入学定員100名の超エリート教育機関。引越しには卒業生たちが大反対したらしい)、

あれがそうです、と紹介した。
 
 近所のあるお医者さんの義理の息子さんが卒業されたそうですと話したところ、

このお医者さんが共通の知り合いだったことが分かった。

 先生によると、その息子さんはフランスにいる間、

日本語の本は読んだことが無いそうで(なっしーもそれに近い)、

フランス語の本しか読まなかったそうだ(なっしーは程遠い)と言う話をした。

 フランスからの地位の高い人の来日の際には、しばしば通訳に借り出されるそうだ。

 wikiを見ると片山さつきもエナ卒業生(エナルクと呼ぶ)なので、

『な~んだ』と言うことになっちゃいそうな話ではあるが。
 
 いずれにしても、エリートでないなっしーだが、

ここ、ストラスブールで何とかしぶとく生き延びているので、これはこれで良しとしよう。

 それでも、一人前に日本語がぎこちなくなることはなるのだな、不思議なことに。

 いや、ひょっとして老人性の失語症?

先生

2010年11月5日 友達
先生
先生
 急に以前習っていたフランス語学校のことを思い出した。いや、思い出さなくはなかったが、昨日メールを書いたのだ。

 映画Ripouxを使った授業を受けたところだ(次に述べるとおりちょっと違うのだが、ripouxに触れた頃から頭の隅にあった)。

 非常に仲の良くなった2人の女性の生徒となっしーと同じ先生とでずっと同じクラスが続いていた。

 もちろん他の生徒が入ってくることもあるが、ワンクールかツークールかやって、他のクラスに行ったりしていなくなった。

 中級クラスなので、初心者はムリだし、日本で普通にやると数年間(2~3年)はかかるのである程度年季が入ってないと難しい。

 そしてそんな人はどこかなじみの学校が出来てしまうだろう。

 この3人というか4人は、数年間、学校が閉鎖になるまで同じクラスで勉強した。

 そうこうしている内に、この学校が経営不振(と言うより親の方の経営不振)で閉鎖になり、

その先生の中の一人が何人かの先生を連れて独立した。

 なっしーは新しい所に通ったが他の人たちとはそこで学友としての縁が切れた。

 独立した元の単なる先生であった新経営者はヴェルサイユの大土地所有の農業家の息子で大金持ちらしい。

 なっしーはそこで勉強を続け、渡仏。

 帰国後も数年間、勉強しながら初級クラスを担当したりしていたのだが、大学が忙しくなってやってられなくて、辞めて(止めて?)しまった。

 それでも時々法律相談を受けたり、世間話をしに通っていたが、数年前に少し行き来があったのだが途絶えていた。

 こうやって書くといろんな人、いろんなを思い出す。

 仲良かった3人の内の1人は、元先生

(別のクラスの担当だったが、振り替えなどで習ったこともある。確かに素敵で知的な、だけど真面目すぎない、日本人が好むタイプの先生だった)

を追いかけてフランスに移住した。

 今はどこにいるか分からないが、前回の渡仏の時はパリで空港に出迎えてもらったり、2度ほど会った。

 お元気なのかな?とふと思い出す。

 とりわけパリに着くと、ああ、あの時出迎えてもらったんだ、とか、もの凄く安いホテルを取ってくれていて、

びっくりしてしまったことなど。

 その後安ホテルにはびっくりしなくなったが、おそらく今度はこっちが他の日本人をびっくりさていることだろう

 もう1人の人は建築家(ご主人も)だ。ご夫婦お二人ともスキーが好きで、ご主人は学生時代、

毎年冬はずっと民宿で住み込みアルバイトをしながら、

1日1,2回の志賀高原、焼額のてっぺんからの20㎞の一気滑りをする生活をずっと続けていたというスキーフリークだった。

 閉鎖後、新しい学校の方で、同じクラスで仲良しになったのは、あるF1解説者の奥さんで、とても美人の、美人であるだけでなく気さくで頭の良い素敵な奥さんだった。

 フランス語学校なので女性しか登場しないが、フランス語をやっている男性には

なっしーも含めて変なやつしかいない、ほぼ。

 そういえば貧乏食べ歩きで大ベストセラーを出した人と、一度同じクラスになったことがあるのだが、

なっしーが仕事で休学中だったので残念ながら結局一度も彼とは顔を合わさなかった。

 女性も大部分は

「わたくし

(『わたし』じゃないことに注意!)、

フランス文学専攻で、フローベルなんかが」

なんていう人が多くって、ちょっとお付き合いが難しい

(向こうからも同じことを言われるだろうが。

「なあに、あのがさつで変なヤツ」なんて)。

 ただ、テニスでもそうだが、習い事は同じクラスに誰がいるかで、長続きするかどうか決まってくるような気がする。

 で、フランス語学校の校長先生だが、ストラスブールの友達も紹介してくれるそうだし、フランスでの再会を約束した。

 そういえば彼に戸隠のペンションを紹介してもらって、ここにも何年か通ったが、

金の切れ目が縁の切れ目で、暫くご無沙汰だった(料理が凄く美味しい)。

 ご主人は(奥さんも)ほぼ同い年だが、

戸隠山に数時間(普通山登りに慣れた人の半分以下)で昇るそうだ。

遭難救助の現場で未だやってますよ、と仰っていたが、

手軽に昇れそうで、実は非常に怖い山だそうだ。

 離日直前に、近くに用事があったので(と言っても100㎞以上は離れていたのだが)会ってきた。

 ああ、何もかもが昔の思い出。思い出が懐かしくなってしまう年になった。

 でも、我ながらつくづく友人に恵まれていた(る!)なあと思う、今日まで。

 

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