長野に行ってきた。

義母の納骨のためだ。

 以前書いたことだが(のはず)、

かみさんの家は岩波古典文学大系にその著作が収録されている儒学者の家系で、

その家系の最後の家族がカミさんの家族で、

カミさんが一人娘で、しかも嫁入りしたうえ亡くなってしまい、

さらに今回義母が亡くなったものだから、

その家系がとうとうここで途絶えることになった。

 義母もなくなってしまったのでその家系を復活することも永遠に不可能になった。

 我が家の両親がこうした事態を心配していたのだが、

義父からは、大きな財産でもあればともかく、

名前だけの家はその内いずれ途絶えることになるでしょうから、

ご心配は要りません、と非常に明確な返事が返って来た。

 ただ、本当にそういう事態になってみると本当にこれでよかったかと思わないではない。

 しかし、たとえ婿に入っていたとしても財産の無い名前だけの家系が続くことには違い無いので、

今後も同じ問題を抱え続けることにはなったろう。

 いずれにしても、このところ来し方行く末をそこはかとなく考える毎日だ。

 若いときは、いずれ明日が来ない日があることは抽象的には観念していても、

昨日の次が今日で、今日の続きが明日で、

その連続が途絶えることがあると実感することは無かった。

 が、連続する日々がどこかで突然切れることが、かみさんを見、義母を見て、

まさしく我がこととして観念されるようになった。

 年を取ると言うことはまさしくこういうことかと。

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