そうですねぇ。

 そろそろ店じまいを考えないといけない年になっているのに、

結局 どうにもならないまま、生きてきた証しを残し続けて、

残し続けてごみをためていく。

 次の世代は、

その生きた証に染みついた思い出と言う価値。

 極く私的で、個人的な価値を知らないものだから

(もちろん社会的には意味のない価値だ)、

ばさ~っと処分してしまう。それが出来てしまう。

 そうやってこそ、初めてガラクタも整理されるんだろう。

 何もかもきれいに。

 台所もレストランのキッチンのように。

 寝室はホテルの寝室。

 本棚は図書館の書庫。

 街はがさ~と取り壊され、近代化され、

風土も風景も、全く別物になってしまう。

 ところが、そうやって取り壊され、棄てられた現実は、

個人的にも、社会的にも思い出を引きずって、そこに存在している過去の遺物。

 わが国の、中国初めアジア諸国の街はモデルルームのキッチンのように、

味気なく、魅力がない。

 個人的には過去の遺物だらけの、部屋。 壁。 廊下。 屋根裏収納場所。

 どうにかならないものだろうか…。

 残しつつ、利用しつつ整理出来ないものか?

 いや、もう店じまいしてしまおうか。

 ただ、原発の遺物は、店じまいだけではおさまらない。         


※ やはりまずいので、改題しました。

コメント

saeko
saeko
2011年11月11日16:23

こんにちは。

なっしーさんの日記と少し違ってきてしまうかもしれませんが、
私は、そう状態にある時期に、全ての過去を思い起こせるものを
捨て去ってしまいました。
後悔しなかったわけではありませんが、
結局、過去を思い出すことも出来ないし、
懐かしむ記憶のないものが身の回りにあるのが
少し辛かったのです。

でも、きっとなんだかんだと身の回りにおいておく方が
幸せなのかもしれないと、最近ちょっと思うようになってしまいました。

やはり、後悔なんでしょうか。

ただ、生まれ育った町が、めいっぱい変わってしまったときは
寂しかったですけれどね。
つい、あの時代は、ゆったりしていて、あったかかったよね、
なんて、思ってしまったりして。

ごめんなさい、長々書いてしまいました。
的外れなコメント、申し訳ありませんでした。

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