老人力は4月20日だった
2011年2月23日 日常
書評『老人力』を書いたのはいつだったかとDNを振り返った。
4月20日だった。
10か月前のことが、遠い昔のように、と同時に、つい昨日のようにも思われる。
力強さを増した老人力が、出来事の詳細を削り取り、
削り取られた出来事は現実感を失ってしまって
全ての出来事が
「遠くに存在する」
かのように思われてくる。
昨日のことがずいぶん昔のことのように思われる。
10か月前のことが10年前のことのように思われる。
それと同時に物事の詳細が削り取られてしまうので、昨日のことも、一昨日のことも、ひと月前のことも、
米を搗いて搗いて搗きまくって酒米にするように、
一つ一つの出来事が小さく小さく削り取られて、芯だけの酒米になってくるので、
10か月前のことも10年前のことも、同じようについ10日ほど前のことのようにも思われる。
不思議な発見をしてしまった。全ての物事が均質化してしまうのだ。
ところで、『老人力』を読み直し、この10ヶ月間のもの凄い老人力パワーの高まりを改めて感じた。
10か月前の老人力の読み方はまだまだ甘かった。
他人事のように思っていたのだ。
自分では自分のことであるかのように思っていたようだが、
今から見るとまるで赤ん坊のような『自分のこと』だ。
読んでいただけ。面白い他人事として。
ところが、10か月経ってみると、老人力を『感じる』ようになっていた。
老人力が自らの力になって沸々と体内で湧き上がってくるようだ。
酒が発酵してぶくぶく泡を立てているような力強さで、
老人力が一段と高みに登ろうとしている。
誰の日記だったか忘れたが、本人が亡くなった後にそれを見つけた人が、
『こんなにこまめに備忘録を書いていたなんて』
とびっくりしたという話が、ここのところ頭から離れない。
何もかも忘れてしまうのが怖くて、ごく些細なこと、どうでもいいことまでびっしりと日記に書いていた、と言う話だ。
誰だったんだろうあの話は、と頭から離れない
(が、この頭から離れないと言ったことすら数日後には頭から離れているはずだ)。
ひょっとしたら記憶がねつ造した記憶なのかもしれない。
ただ、少なくとも今読んでいる『枢密院議長の日記』(佐野眞一)ではない、
とは思うのだが自信がない。
4月20日だった。
10か月前のことが、遠い昔のように、と同時に、つい昨日のようにも思われる。
力強さを増した老人力が、出来事の詳細を削り取り、
削り取られた出来事は現実感を失ってしまって
全ての出来事が
「遠くに存在する」
かのように思われてくる。
昨日のことがずいぶん昔のことのように思われる。
10か月前のことが10年前のことのように思われる。
それと同時に物事の詳細が削り取られてしまうので、昨日のことも、一昨日のことも、ひと月前のことも、
米を搗いて搗いて搗きまくって酒米にするように、
一つ一つの出来事が小さく小さく削り取られて、芯だけの酒米になってくるので、
10か月前のことも10年前のことも、同じようについ10日ほど前のことのようにも思われる。
不思議な発見をしてしまった。全ての物事が均質化してしまうのだ。
ところで、『老人力』を読み直し、この10ヶ月間のもの凄い老人力パワーの高まりを改めて感じた。
10か月前の老人力の読み方はまだまだ甘かった。
他人事のように思っていたのだ。
自分では自分のことであるかのように思っていたようだが、
今から見るとまるで赤ん坊のような『自分のこと』だ。
読んでいただけ。面白い他人事として。
ところが、10か月経ってみると、老人力を『感じる』ようになっていた。
老人力が自らの力になって沸々と体内で湧き上がってくるようだ。
酒が発酵してぶくぶく泡を立てているような力強さで、
老人力が一段と高みに登ろうとしている。
誰の日記だったか忘れたが、本人が亡くなった後にそれを見つけた人が、
『こんなにこまめに備忘録を書いていたなんて』
とびっくりしたという話が、ここのところ頭から離れない。
何もかも忘れてしまうのが怖くて、ごく些細なこと、どうでもいいことまでびっしりと日記に書いていた、と言う話だ。
誰だったんだろうあの話は、と頭から離れない
(が、この頭から離れないと言ったことすら数日後には頭から離れているはずだ)。
ひょっとしたら記憶がねつ造した記憶なのかもしれない。
ただ、少なくとも今読んでいる『枢密院議長の日記』(佐野眞一)ではない、
とは思うのだが自信がない。
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