昨日の日記の裏には実は大変なことが起こっていた。
高校の同級生(女性。Nさんと呼ぶ)が、ずっとベルギーに住んでいて、この時にエクスに会いに来てくれていた。
一泊100フランくらいの安ホテル(これはなっしーが泊まっていたアパートの直ぐ近く)に泊まっていて、
さあ、街の見物に出かけよう、とホテルを出てほんの1、2分。
ちょうど散り始めていたプラタナスの葉の上に足を乗せたところで滑ってしまった。
彼女が「自分で分かる。とてもじゃないけど動ける状態じゃない」と言うので、
救急車、救急車と思って電話を探していたら、
「S(次男の名前)のパパじゃない?」
と、ある女性が声をかけてくれた。
「Cのママですよ」
と言われ、ああ、「Fさん」と答えたが、
Fさんは足に触って、
「私は整形外科医なの。これは大変な大怪我。救急車が来るまで私が付いているから(通行人がもう呼んでくれていた)、
M(その時泊まっていたアパートの所有者)を呼んでおいで」
と言われ、Mさんを呼びに行った。
ちょうど現場に戻った時、救急車に乗り込むところで、そこでFさんと別れた。
Mさんはあちこちに顔が利くので、院長に電話するから心配要らない、と言い残して自宅に帰った。
病院まで付き添い、入院手続きを済ませ、病室で四方山話などしたが、そのまま放置され、結局手術は夜8時頃になった。
整形外科医のCママFさんに、夜になって顛末の報告をしたが、
執刀医はZ先生だったと伝えたら、「それなら安心」と言うことだった。
このZ先生が他の手術が入っていたので、8時まで待たされたのだと言うことも後で分かった(事情が分からないまま放り出されていた時は、コンチクショウ!何で放って置かれるんだろうと思っていた、正直なところ)。
その後2日ほどなっしーはエクスにいたが、パリで、以前お世話になった先生に会う約束があったこともあり、
「大丈夫だから。見舞いに来て貰っても2、30分話したらやることもなくなるし」
という友人Nさんの言葉もあって、大けがの友人を放り出してパリに行き、美術館巡りをしたわけだ。
先ほど述べたフランス人の友人Mさんが、院長と懇意で、もちろん執刀医もご指名だった。
Mさんは市長や院長だけでなく「長」と名が付けば盲腸(長)でも仲良しだろう、おそらく。
不調法ななっしーも気に入ってくれるのは『調』が入るからかも知れない。
友人Nさんの病室には、
毎朝晩、執刀医だけでなく院長もがご機嫌伺いに来る。
もちろん友人(アパートの所有者)Mさんも時々顔を出す。
同室のおばあさんが
「あなた何者?」
と言うくらいの待遇だったらしい。
この大けがをしたNさんは、ある大きな国際的な組織で働いていて(今は退職して個人で通訳、翻訳などしている)、高校生の時代から
「ちょっと変わっているな」
と思われていたし、なっしーも思っていた。
普通に女子大の英文科を出て、ちょっと似合わないなと思っていた。
そのうち何だか外国に行っているらしい、などと噂を聞いていたのだが、
ベルギー人と結婚し、離婚し、女手一つで2人の子を育て上げた。
息子さんが日本に留学する時にはちょっとだけお手伝いをしたが、その時はもう堂々たる国際人だった。
病院で同室のおばあさんからプロヴァンス語の手ほどきをうけ、多少なら話せるようになったそうだ。
そのおばあさんから何カ国語くらい話せるの?と聞かれ
同時通訳できるもので、英語、ドイツ語、フランス語、フラマン語でしょう? それから … … … 日本語、岡山弁。
10カ国語くらいかな? プロバンス語はまだ通訳出来ないけど、と答えたそうだ。
Nさんも言っていたが、手術はもの凄く鮮やかな手際だったらしい。
8時まで待たされたの分かる、と
今回も会う約束だけはしているのだが、こちらは暇でも向こうが忙しくてなかなかチャンスがない。
※ 上の写真がエクス中央病院(次女が生まれた)。当時の面影はほとんど残っていない。整形外科は新棟でこの奥の方にあった。
下の写真を撮ったカメラ位置辺りが事故現場。 写っているピザ屋のピザも結構美味しかったが(おつりに貰った20フラン札が偽札ぽくて、長男が「お父さん。これ偽札じゃない?」と日本語で言ったら、店のお兄さんが「しーっ」と言う格好をした。もちろん早々に使った。当時20フラン札の1/4は偽札だと言われていた)、この道路を右の方に行った所に停まっていた屋台のピザ屋が最高だった。味が変わったのは以前日記に書いたと思う。
高校の同級生(女性。Nさんと呼ぶ)が、ずっとベルギーに住んでいて、この時にエクスに会いに来てくれていた。
一泊100フランくらいの安ホテル(これはなっしーが泊まっていたアパートの直ぐ近く)に泊まっていて、
さあ、街の見物に出かけよう、とホテルを出てほんの1、2分。
ちょうど散り始めていたプラタナスの葉の上に足を乗せたところで滑ってしまった。
彼女が「自分で分かる。とてもじゃないけど動ける状態じゃない」と言うので、
救急車、救急車と思って電話を探していたら、
「S(次男の名前)のパパじゃない?」
と、ある女性が声をかけてくれた。
「Cのママですよ」
と言われ、ああ、「Fさん」と答えたが、
Fさんは足に触って、
「私は整形外科医なの。これは大変な大怪我。救急車が来るまで私が付いているから(通行人がもう呼んでくれていた)、
M(その時泊まっていたアパートの所有者)を呼んでおいで」
と言われ、Mさんを呼びに行った。
ちょうど現場に戻った時、救急車に乗り込むところで、そこでFさんと別れた。
Mさんはあちこちに顔が利くので、院長に電話するから心配要らない、と言い残して自宅に帰った。
病院まで付き添い、入院手続きを済ませ、病室で四方山話などしたが、そのまま放置され、結局手術は夜8時頃になった。
整形外科医のCママFさんに、夜になって顛末の報告をしたが、
執刀医はZ先生だったと伝えたら、「それなら安心」と言うことだった。
このZ先生が他の手術が入っていたので、8時まで待たされたのだと言うことも後で分かった(事情が分からないまま放り出されていた時は、コンチクショウ!何で放って置かれるんだろうと思っていた、正直なところ)。
その後2日ほどなっしーはエクスにいたが、パリで、以前お世話になった先生に会う約束があったこともあり、
「大丈夫だから。見舞いに来て貰っても2、30分話したらやることもなくなるし」
という友人Nさんの言葉もあって、大けがの友人を放り出してパリに行き、美術館巡りをしたわけだ。
先ほど述べたフランス人の友人Mさんが、院長と懇意で、もちろん執刀医もご指名だった。
Mさんは市長や院長だけでなく「長」と名が付けば盲腸(長)でも仲良しだろう、おそらく。
不調法ななっしーも気に入ってくれるのは『調』が入るからかも知れない。
友人Nさんの病室には、
毎朝晩、執刀医だけでなく院長もがご機嫌伺いに来る。
もちろん友人(アパートの所有者)Mさんも時々顔を出す。
同室のおばあさんが
「あなた何者?」
と言うくらいの待遇だったらしい。
この大けがをしたNさんは、ある大きな国際的な組織で働いていて(今は退職して個人で通訳、翻訳などしている)、高校生の時代から
「ちょっと変わっているな」
と思われていたし、なっしーも思っていた。
普通に女子大の英文科を出て、ちょっと似合わないなと思っていた。
そのうち何だか外国に行っているらしい、などと噂を聞いていたのだが、
ベルギー人と結婚し、離婚し、女手一つで2人の子を育て上げた。
息子さんが日本に留学する時にはちょっとだけお手伝いをしたが、その時はもう堂々たる国際人だった。
病院で同室のおばあさんからプロヴァンス語の手ほどきをうけ、多少なら話せるようになったそうだ。
そのおばあさんから何カ国語くらい話せるの?と聞かれ
同時通訳できるもので、英語、ドイツ語、フランス語、フラマン語でしょう? それから … … … 日本語、岡山弁。
10カ国語くらいかな? プロバンス語はまだ通訳出来ないけど、と答えたそうだ。
Nさんも言っていたが、手術はもの凄く鮮やかな手際だったらしい。
8時まで待たされたの分かる、と
今回も会う約束だけはしているのだが、こちらは暇でも向こうが忙しくてなかなかチャンスがない。
※ 上の写真がエクス中央病院(次女が生まれた)。当時の面影はほとんど残っていない。整形外科は新棟でこの奥の方にあった。
下の写真を撮ったカメラ位置辺りが事故現場。 写っているピザ屋のピザも結構美味しかったが(おつりに貰った20フラン札が偽札ぽくて、長男が「お父さん。これ偽札じゃない?」と日本語で言ったら、店のお兄さんが「しーっ」と言う格好をした。もちろん早々に使った。当時20フラン札の1/4は偽札だと言われていた)、この道路を右の方に行った所に停まっていた屋台のピザ屋が最高だった。味が変わったのは以前日記に書いたと思う。
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