〇〇ゆみさん

2010年10月20日 日常
〇〇ゆみさん
 夏休み明けに学校に行った。小学校3年生の時だった。

 下足箱の隣が〇〇ゆみさんの箱で、そこに靴もスリッパも入れられたことが無かった。

 『どうしたんだろう?』と気にかかっていたのだが、何日か経って転校したと聞いた。

 隣のクラスの下足箱ではない。自分のクラスの下足箱だと思う。

 〇〇となっしーの姓は隣になっておかしくない、すぐ近くのはずだ。

 ところがその〇〇ゆみさんの、顔も何も覚えていないのだ。

 田舎の小学校だが、(当時の)電電公社の社宅があって、

そこには転勤族、いわば都会のにおいのする家族、都会のにおいのする子供たちがいた。

 ゆみさんは、その都会のにおいのするゆみさんだった、はず。

 だが、何も覚えていない。名札だけの記憶しかない。

 それなのに50年ばかり、あの夏休み明けの喪失感だけが、

実感として残されていて、今でもその喪失感をありありと思い出す。

 いや、時間が記憶を一層強く、鮮明にしているのだ。

 ただ、大学生の頃、思いを断ち切った。

 向こうは何も知らない。引っ越してきて、又引越して出て行っただけ、おそらく極く短期間で。

 話を交わした記憶がこちらに無いのだから、向こうにあるはずが無い。

 『思いを断ち切る』と言うのが、何を言うのか自分でも分からないが、

ああ、もうおしまいだ、と言う実感だけはあった。

その頃、『ああ、おしまいだ。2度とめぐり合うことは無いだろう』

と思う夢を見たのだ。

 風の又三郎はある日突然やってきて、ある日突然いなくなった。

が、又三郎は確かにいた、のだろう、恐らく。

 ゆみさんは、いないまま、突然いなくなった。

 いや本当にいたんだろうか?
 

※ 合理的な説明としては、夏休み中に転校してくる予定だったのが急に予定変更になって取り消された、と言うのが一番ありうるケースですね。

 ただ、あの下足箱の名札の印象がものすごく強く残っているのが、不思議で仕方が無いんです。縦書き、ひらがなで○○ゆみ。ただ、脳は平気で記憶を偽造、捏造しますからね。でも、不思議。

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