何度か行ったことがあるとても美味しいレストラン。
昨日は、シェフが留守で、サブのシェフと若いコックさんの2人きりだった。
本務校からの留学生(女性)とそこに食事に行った。
この留学生は、高校生のとき1年間留学したことがあるそうで、流暢なフランス語を操る。
ちょっと嫉妬する。
なっしーは高校生の時、ある(半)公的機関の留学生試験を受けて、最終面接で落ちた。
1ドル360円の時代で、まだまだ日本が貧しく、その貧しい日本の貧しい家庭からの留学と言うと、
こうした(半)公的留学しか考えられなかった時代だ。
高校の英語教師をしていた父親が、20年ほど経って、そのときの面接担当者の先生とご一緒することがあった。
「もう、時効でしょうから言いますが、実は、なっしー君は(小中高とずっと一緒だった)
A君と同点だったんですよ(確か3人枠の3人目)。どっちでもよかったんですが、いろんなことからA君になっちゃいました」
A君は高校3年で留学、一流大学卒業、一流企業就職、同期で常にトップで昇進し(これは別ルートからの情報)、
早々と見切りをつけたそうだが、定年まで数年残して退職。
今、東京の郊外で家庭菜園をやりながら、のんびりと生活している(はず)。
一方、落ち癖のついたなっしー君といえば、一流の国立大学に落ち、
貧乏人の子沢山で、学資と生活費稼ぎのためにまだまだ仕事を続けざるを得なくて、
年老いて不自由な地で、不十分で怪しげなフランス語を操りながら、
細々と、ひっそりと(そうじゃないぞ!うるさくて仕方が無い!!と言う声が聞こえる)、
まだ宮仕えをして(私立なので宮仕えと言うかどうか…)糊口をしのいでいる。
では、あの時もしアメリカに行っていたら?
すくすくと伸びてすばらしい人生を送っただろうか?
なんか、結局は同じように、出来の悪い炭が、
不完全燃焼で二酸化炭素を撒き散らすような、そんな道を歩いたんだろうな、、
などと言う風なことをふと思い出しつつ、
さて、食事が終わって、
「美味しかったですねぇ、ホントに」
と2人で言葉を交わしたが、結局ほかに客が来ず、貸切だった。
あのレストラン。前よりも、もっと好きになった。
※ 実はその留学機関のアメリカ人留学生を実家で受け入れたことがあって、留学経験があった日本人がサポートについた。その日本人は今なっしーの義弟になっている。運命の糸は二重、三重に絡まる。
いずれにせよ、異文化との出会いは、何らかの形で人生に大きな痕跡を残す。
なっしーのマイ・ブームは今中国とベトナムだ。それぞれ年に2回ずつは(仕事で)訪問している。 ニィハォ! チャオ アィン!
(中国語もベトナム語も、留学生が押しかけ女房みたいにやって来て教えてくれるんですが、ベトナム語はホントに難しい)
写真の上二つが西安(二つ目は翠華山と言ったかな?西安郊外にある凄くきれいな山です。そうでしたhttp://www.cuihuashan.com/Chinese/index.asp)。下はハノイの少数民族博物館です。
昨日は、シェフが留守で、サブのシェフと若いコックさんの2人きりだった。
本務校からの留学生(女性)とそこに食事に行った。
この留学生は、高校生のとき1年間留学したことがあるそうで、流暢なフランス語を操る。
ちょっと嫉妬する。
なっしーは高校生の時、ある(半)公的機関の留学生試験を受けて、最終面接で落ちた。
1ドル360円の時代で、まだまだ日本が貧しく、その貧しい日本の貧しい家庭からの留学と言うと、
こうした(半)公的留学しか考えられなかった時代だ。
高校の英語教師をしていた父親が、20年ほど経って、そのときの面接担当者の先生とご一緒することがあった。
「もう、時効でしょうから言いますが、実は、なっしー君は(小中高とずっと一緒だった)
A君と同点だったんですよ(確か3人枠の3人目)。どっちでもよかったんですが、いろんなことからA君になっちゃいました」
A君は高校3年で留学、一流大学卒業、一流企業就職、同期で常にトップで昇進し(これは別ルートからの情報)、
早々と見切りをつけたそうだが、定年まで数年残して退職。
今、東京の郊外で家庭菜園をやりながら、のんびりと生活している(はず)。
一方、落ち癖のついたなっしー君といえば、一流の国立大学に落ち、
貧乏人の子沢山で、学資と生活費稼ぎのためにまだまだ仕事を続けざるを得なくて、
年老いて不自由な地で、不十分で怪しげなフランス語を操りながら、
細々と、ひっそりと(そうじゃないぞ!うるさくて仕方が無い!!と言う声が聞こえる)、
まだ宮仕えをして(私立なので宮仕えと言うかどうか…)糊口をしのいでいる。
では、あの時もしアメリカに行っていたら?
すくすくと伸びてすばらしい人生を送っただろうか?
なんか、結局は同じように、出来の悪い炭が、
不完全燃焼で二酸化炭素を撒き散らすような、そんな道を歩いたんだろうな、、
などと言う風なことをふと思い出しつつ、
さて、食事が終わって、
「美味しかったですねぇ、ホントに」
と2人で言葉を交わしたが、結局ほかに客が来ず、貸切だった。
あのレストラン。前よりも、もっと好きになった。
※ 実はその留学機関のアメリカ人留学生を実家で受け入れたことがあって、留学経験があった日本人がサポートについた。その日本人は今なっしーの義弟になっている。運命の糸は二重、三重に絡まる。
いずれにせよ、異文化との出会いは、何らかの形で人生に大きな痕跡を残す。
なっしーのマイ・ブームは今中国とベトナムだ。それぞれ年に2回ずつは(仕事で)訪問している。 ニィハォ! チャオ アィン!
(中国語もベトナム語も、留学生が押しかけ女房みたいにやって来て教えてくれるんですが、ベトナム語はホントに難しい)
写真の上二つが西安(二つ目は翠華山と言ったかな?西安郊外にある凄くきれいな山です。そうでしたhttp://www.cuihuashan.com/Chinese/index.asp)。下はハノイの少数民族博物館です。
コメント
なっしー様ってば、今の生活十分楽しんでいらっしゃるように(ご不自由さも含めて)お見受けしますよ。
ひょっとしたら、A...F...のことかしら?
だとしたら、私もそっくりの経験があるんですよ。(同年代?笑)
次点(?)として、あちらから来た高校生たちと1週間キャンプに行く機会を頂いたのですが、ひどくがっかり…。(ベトナム戦争の頃ですから、ディスカッションもプログラムのメインに)
悔し紛れではなく、本当に心から選ばれないで良かったと思いました。(あのトラウマ以来、アメリカ英語が話せなくなって、もっぱらイギリス英語? 笑)
なっしーさん、あちらの引き取り家庭(ほとんどが、かなりのタカ派)の政治色etcに合わくて、つらい1年間を送られたかもですよ。
今年もシンポジュームに呼ばれているんですが、ちょっとまずいのでお断りしました。港区の方の先生から、つい昨日「お会いできると思っていたのに」とメールを頂いたばかりです。
ところで、ご指摘の通り世代もほぼ同じ。お仲間ですね。
落ちた大学は、S予備校で勉強した次の年、入試が無くなった大学でした。紆余曲折があって現在に至るわけですが、仰るとおり、結果としてあそこで落ちたのが物凄くいい方向に舵取りをしてくれたと思います。ただ英語もフランス語も中国語も、スタートは順調に進歩するんですが、初級の終わりの辺で厚い壁にぶつかっちゃいますね(あ、語学だけじゃなくて、学問も。まだ中級のはじめの辺かな)。もういまさらどうしようもないので、ボケ防止の中国語、ボケ防止のベトナム語、ついでにボケ防止の学問(!)も頑張ります。