登校拒否
 学校には行くもんだ、という風に単純に思い込んでいた世代に属するなっしーの周りには、少なくとも登校拒否といわれるような子がいたという記憶はない。

 余り大きな小、中学校ではなかったので全員が顔なじみで、おそらく間違いない。

 もちろん悪がきもいたし、少し知恵遅れの子やら、また、いじめも無かったわけではない。

 ただ、みんな学校には行くものだ、と思い込んでいたからなんだろう、みんな来ていた。

 今、ここストラスブールで、なっしーも、「行かなくても良いや」とふと思ってしまうと、本当は図書館に行って資料を調べたり、また、資料調べをしなくとも研究室を使えるようにしてもらっているのだから行けば良いんだが、つい、億劫で漫然と家で一日過ごす。

 これ、プチ登校拒否ですよね。

 一回行かないとなんだか次が億劫になる。

 重いリヤカー(分かりますか?)を引っ張っていて、動いている間は動き続けているんだが、一旦停まってしまうと、もう一度動かすのに、大きな力が要るのとおんなじだ。

 何も問題が無くてもなっしーのようにプチ登校拒否になってしまうので、多少でも問題がある時の解決策は、本当に難しい。

 問題を取り除いても、すぐ学校に復帰という風にはならないからだ。

 とりわけ、片や塾、片やいじめ等で、学校に行かなければならない、という求心力が失われてしまった、いや、少なくとも大きく弱体化した現代の初・中等教育現場では。

 いや、現実には高等教育現場も崩壊している。

 人口比で10%程度、少なくとも20%程度であれば高等教育といわれる質の教育が提供されうるのだそうだ。

 ところで、現在、大学進学率は50%を越えている。大学は、とっくの昔に高等教育機関で無くなっている。

 言葉は悪いが、選別機能が働いていないからだ。
 
 ただ、こうなると逆に大学に《行かない》ということが、かつて、高校に行かないということが持っていたのと同じように、大きな意味を持ってしまうことになる。

 少なくとも、行こうと思えば、経済的には大学には行ける、という態勢が整えられなければならない。

 すなわち大学教育の無償化だ。
 
 では、選別機能はというと、一部の銘柄大学を卒業した、という形で働くことになる。

 高校進学率がほぼ100%になっても、麻布、開成を卒業したというとそれだけで「ほう」ということになるのと同じで、東大や京大を卒業したということが評価基準になってしまう。
 
 なんだか夢の無い話のようだが、実は、学歴(だけ)で人を評価するということをわれわれは放棄しなければならないのだ。

 お勉強が出来るのと同じように、仕事が丁寧で仕上がりが美しい、ということが高く評価され、それが経済的にも見返りがある、といった風に。

 「努力すれば報われる社会に」とよく言われるが、それは、金儲けのテクニックを身に着ければ大きな見返りがあるように(金儲けをしても税金をあまり取るなということです)、ということを主張しているように思われる。

 これは、学歴を収入金額に置き換えただけだ。
 
 そうではない。

 社会に対してどれだけ貢献したかがその人の評価となるような、そうした全人的評価基準を見出し、確立することだ。

 問われているのは学校現場だけではない。

 日本の社会システムそのもの、とりわけ、人を人としてどんなに大切にする社会であるか、ということだ、とちょっと肩に力が入りすぎたかな?

コメント

nophoto
ME
2010年5月19日17:10

伺いましたよ。
日本に戻られたら、カラオケいきましょー。
って何の脈絡もなく…(笑)

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